<ポストモダン>とは何だったのか − 坂本龍一への幻滅

 本上まもるという人の『<ポストモダン>とは何だったのか」とは何か』という本を読んだ。1983年を起点に構造主義やフランス現代思想が日本でどのように語られてきたかを浅田彰柄谷行人東浩紀福田和也らを中心に再検討した一冊。1983年といえばディズーランドの開園やファミコンの発売、YMOの散開などがあった年ですが『構造と力』がベストセラーとなった年でもあり日本におけるポストモダンニューアカの登場年と言えるのだそうです。ポストモダン思想・ニューアカは流行にもなったが80年代から90年代にかけて軽薄な時代の中で思想本来が持っていた「重いもの」が失われたのではないのか。その「重いもの」「本質的なもの」を探るというのが一応の主眼。
先に挙がった日本人は勿論、デリダドゥルーズガタリラカンなどに関しても概略というかコンパクトにまとめられていてそこそこ面白く読んだのだけれど、実は一番興味深かったのが著者がファンだったらしい坂本龍一に関するエピソード。

坂本龍一は私にとって文化的なヒーローだった。「シェルタリング・スカイのテーマ」は自分の葬儀でかけてもらいたいと思ってるくらいだ。〜中略〜 私と同世代の者たちにとって、若いころに坂本龍一の音楽があったことは得がたい僥倖に違いなかった。
〜中略〜
坂本の新しい曲を聴いても何も感じなくなってしまったのはいつのころからだろうか?いつも間にかご令嬢が坂本のプロヂュースでデビューし、ついには中沢新一と坂本が一緒に温泉に入るという悪夢のような光景がテレビ画面に映し出されるに至って、私の幻想の庭はただの廃墟と化してしまった。

中沢新一と坂本が一緒に温泉に入るという悪夢のような光景」を見た気持ちというのは、細木数子の番組で細木に激励される小室哲哉を見た僕の気持ちと近いのだろうか。違うか(笑)。著者は70年生まれだそうがその世代にとって坂本龍一がどういう存在だったのだろうかと考えた時に、音楽が好き・嫌いというの勿論あったろうが坂本を聴くということがちょっとスノッブというか良い気分にさせてくれる存在だったんだろうなと思った。今でもちょっとそういうのはあるかも知れませんが。今は誰なんだろう?コーネリアスとか?
実を言うと自分は坂本龍一の音楽は好きなんですが、坂本自身を好きとは言い切れない部分がある。本書で引用されている村上龍との対談での坂本の発言を孫引き。

怖いのは、そうやって量産される音楽を買う人間がいて、それは買う人間悪いんだけど、それでなにがいしかの快楽を得ているつもりになっているわけでしょ、実際にその子達にとっては快楽だったりするかもしれないということがさ。
〜中略〜
本当にいいものを、子供の時から超一流の絵を観、超一流の音楽を聴いてなきゃ、一流の音楽は作れるわけないんだよ。全然、そんないいものを観たり聴いたりしていない奴が作ったものを聴いてる無教養な者たちが一億人もいるわけだから、それは駄目に決まってるよね。   『村上龍対談集 存在の堪えがたきサルサ

こういう言い方がどうもなぁ・・。もちろん、枝葉に目をくれず高いレベルで表現していかなくてはいけない人達の苦労というかそういうのも理解は出来るんですけどね。中沢新一と温泉に入っている坂本に幻滅したらしい著者もこのコメントは肯定的に引用していて、80年代的な人達の共通の感覚なのかしらと思ったりした。

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)