うんこ漏れそうなときのBGM

31歳にしてうんこをもらしました http://www.nakamurahiroki.com/2010/04/31.html

この記事が大変面白かったので、ありがちネタですがうんこ漏れそうなときのBGMを挙げてみました。自分も比較的おなかが弱いので駅で大変な思いをすることが多くその時に、脳内で自動再生するものです。何パターンかあるので思いつくのをできるだけ挙げてみました。

  • 定番。外出先などでトイレを探すとき、僕なんかはだいたいこれですね。繰り返しのフレーズとBPMが丁度いい。これは同じ人多いのではないでしょうか。しかし明るい曲調から分かるようにまだ余裕があります。

  • レベル2。腹痛は無視できなくなり危機はやや現実的に。



いずれも超強力なサビを持った曲です。頭でなるのはイントロだったりサビだったり。印象的なリフレインが頭を巡ります。ポイントはやはりテンポ感とPCMシンセの音ですかね。思うに、90年代を駆け抜けたavexサウンドは非常に相性がいい気がします。懐かしいFavorite BlueD-LOOPなどもあるかもしれません。蛇足ですが、世間では小室サウンドavexサウンドという誤解をしている人が未だにいるようです。

  • 動悸、冷や汗、妙な足踏みを始める状態




いよいよやばい状態です。この辺りになるとBPMは関係なくてやはりメロディーですね。独特の怪しさ、ある種の毒を持った曲が多いです。まさかのFatboy Slim2曲目。(ひとつはリミックスですが)これらの楽曲はバスドラ(ドラムの低い音)の響きが強力ですので力の入れ方に気を付けないといけません。

  • クライシス目前




何ならちょっと顔でてる状態。緊張状態が極限まで来た時、それは大変なストレスとるでしょうから当然それを緩和させようと意識が働くのだと思います。 ゆるやかな楽曲多いです。宇宙的な何か。肛門と天空がつながってるち言ったのはニーチェでしたっけ。しかし気持ちの緊張を解く訳にいかないのが困ったところです。また、ラヴェルと言えば一般的には『ボレロ』が有名ですがご存知のようにボレロは一つのフレーズを繰り返す長尺の曲です。「時間」を感じさせるものは無意識にさけてるのだと思います。

  • おまけ:漏らした場合



幸いにして自分はその経験は無いので分かりませんが(小便はある)童心に帰るのではないかと予想しています。
皆さんの頭の中にはどんな曲が流れますか?

『バブルへGO!!』はひどくないか

※ネタバレ丸出しです、ご注意

 普通に楽しむつもりで見たのに、エンディングを迎えたあたりでちょっとイラッときた。といっても娯楽映画としての全体的なバカっぽさはむしろ好きだし、タイムトラベルに関する設定の緩さとかそういうのも別にいい。失われた10年から現在にかけて顕在化してきた諸問題が全てひとつの金融政策とそれを画策した黒幕のせいであるかのように描かれている点だけがどうも納得できない。何でもかんでも、誰かのせいにしたり時代のせいにしてはいけないのではないか。90年時点の阿部寛(下川路)はちょっとだけ自分のいいかげんな生活にけじめをつけようと思ったようだで、その結果現在(2007年)において総理大臣となるのだが、なっちゃだめだろ。(広末の借金は男の借金だから消えてもまあいいとしても)
 『バブルへGO!!』を観て一番感じるのはこの映画の制作者、ホイチョイプロダクション−フジテレビ−電通のあの時代への反省のなさである。(あと、広末の異常な可愛さだ)自分自身や自分のそれまでの歩みを肯定する事は確かに必要な事だ。しかし否定や反省を経た肯定でなければ僕は信用できないと思う。ひょっとしたら考えた事もあったのかもしれないが、だったらそれを画面に映せばいい。写せないということは結局はちゃんと向かい合えていなのだ。全部だれかのせいにして、主人公を総理大臣にして喜んでいる根性が気に入らない。

 しかしまあバブルって何だったんですかね。自分は90年で小学1年だったと思いますが、小2くらいの時にテレビや大人のまねでやたら「ふけーき」って言ってたのを覚えてます。91年には完全に景気悪かったんですね。とんねるずの人気が凄かったのってこの辺だったような気もするんですけど、とんねるずが番組内でよくやる番組スタッフのマネ・スタッフいじりとか、とんねるず・フジテレビ的な悪乗りってバブルのイメージと凄い重なる。

浦沢直樹はスペアを狙ったのか?

21世紀少年 下 (2) (ビッグコミックス)

21世紀少年 下 (2) (ビッグコミックス)

『20世紀少年』、最終章『21世紀少年』を読み終えて感想など。(※ネタバレ丸出しですのでご注意。)

○不満点
Amazonレビューなどを読むとやっぱりボロクソなわけですが、いわゆる謎解き部分に関しての投げ出し感はやはり否定できないと思う。カツマタ君ってあれでしょ、理科室の。あの時山根君と一緒にいたお面の子がカツマタ君で、万引き事件の後死んだ事になってしまったと。なぜフクベエと一緒にいたのか。死んだ事になってからどのように<真・ともだち>となったのか。なぜサダキヨと同じお面をかぶっていたのか。チョーさんがどのようにカツマタ君にたどり着いたのか。その辺はやっぱり描かないとまずかったんじゃないかなと思う。あとはあいつ、高須。高須とか敷島教授の娘は『MONSTER』におけるロベルト的ポジションで、ああいう妄信キャラがどのような悲劇を迎えるかあるいはどのように救われるかというのは結構大事な気がするけどこれも描かれていない。

○<ともだち>に関して(謎解き部分を一旦全部外して)
物語はヴァーチャルアトラクション内でのif世界でケンヂとカツマタ君が「友達」になれたかもしれないという可能性を提示して終わる。(あれ、フクベエはどうした?)ケンヂが万引きの件を謝罪し和解という結末を迎えたことは良かった。(というか、それしかないか)ケンジとオッチョを中心にした秘密基地の仲間たちとフクベエ・ヤマネ・サダキヨ(+カツマタ)との対峙は「スクールカースト」なんていうひどい言葉を連想させるものがあったわけで『20世紀少年』はある種の読者にはつらい物語なのではないかと前から思っていた。『耳をすませば』で鬱になったというのはネットでよく見かけるが、『20世紀少年』で鬱になったというブログ記事を見かけないのが不思議ですらある。(自分が知らないだけかもしれないけど)「どろどろした自意識をうまく処理できない少年がインチキカルトの教祖になってついには世界を牛耳る」と書くとなんとも安っぽいが浦沢直樹の画力・演出力もあってか特にフクベエが<ともだち>へと至る過程はちょっとリアリティがある。フクベエの部屋でマンガを読んでたケンヂ達が急に秘密基地に行っちゃう場面なんかはちょっと痛い。(あの場面がフクベエ視点になってるのはさすが)『耳をすませば』の辛さというのは結局、「○○しなかったことへの後ろめたさ」であって今現在の自分が夢や目標を持っていたり彼女がいたりすれば割と払拭できるものだとは思う。対して『20世紀少年』の場合は選択不可能だった状況を描いているのでいつまでたっても引きずってしまうものがある気がする。

○まとめ−浦沢直樹のスネークアイ
物語の推進力となっていたのは間違いなくミステリー的要素だったわけでその部分に不満が残ったというのは作品として成功だったとはいえないと思う。最後の方バタバタしすぎだし。でも、好きか嫌いかといわれればやっぱり好きかも。泣かされそうになった場面多かったしね。ヨシツネが一人で基地作ってたとか、マルオが体張って基地守ってたとかケロヨンがケンジに謝るところとか、サダキヨに関するエピソードとか。他にもいっぱい。ラストがオープニングの場面というのも良かった。ケンヂが「何も変わらなかった」とため息をついていた『20th CENTURY BOY』の大音響が一人の少年を救っていた・・・みたいな。音楽好きとしてはちょっと感動する。あれはifの世界なのか史実だったのかどっちなんでしょ。

友情とミステリーを核に、三丁目の夕日などとに繋がるノスタルジーフレーバー、SF要素に音楽と多くの素材を絶妙に配しながらその画力と演出力さらに天才的な伏線の張り方(嫌味じゃないですよ)であとはその解決の仕方で超最高傑作になりそうだったのに・・。12,13巻くらいまではそんな感じだったなぁ。コード進行で言えば、B♭→C7→Fsus4と引っぱりるだけ引っぱってトニックにいかなかったみたいな。違うか(笑)。神様(ボーリング場の社長ね)の言葉を借りるなら浦沢直樹もまたスネークアイをだしちゃったという所でしょうか。血の大晦日のケンヂ達を、ボーリングで両端のピン2本が残るスネークアイに例えて語っています。

あの時、200を越えるハイスコアのゲームだった。9フレーム目まで、ほとんど同じスコアで競り合った。ところが、10フレーム目・・・ケンヂはスネークアイを出しちまった。普通は、あきらめて確実に一本狙いさ。だが、あの時は、それを取りに行かなきゃケンヂに勝ちはなかった。思いっきりボールに回転つけて、ピンの外側にごく軽くヒットさせ、真横にはじくしかねぇ。奴は投げた!
どうなったと思うね?・・・ボールはピンにかすりもせず、ガターに消えていった・・・

なんかすでに『20世紀少年』そのものを暗示していたような・・。浦沢自身はどうだったんですかね、スペアを取る気だったのかどうか。NHKの番組でその辺の事を話してたみたいですけど、観てないんだよなぁ。まあ、もういいけど。結果的には惜しかったけどやっぱり好きですよ、楽しませてもらったし『20世紀少年』。

T−REX。
ちなみに小室センセイが歌ってる動画もある(笑)。自分はファンだから大丈夫だけど。

脱オタファッション

http://d.hatena.ne.jp/k-d-hide/20070716(30代からの脱オタク さん)

脱オタファッションの記事は久々に読んだ気がする。一時期頻繁に見かけてたと思うけど、最近は書かれる事自体が減ってたような感じがする。わかんないけど。

でも、確かに今のオレに、そして「脱オタクファッション」に足りないのは「音楽」であり「スポーツ」であり・・・つまりは「ライフスタイル」じゃないだろうか。

id:k-d-hideさんはここで脱オタファッションの限界として自分なりのライフスタイルの欠如を挙げられている。自分にとっては「垢抜けなさ」これにつきる。童顔とかそういうことではなくて、「空気」。幸いにして(こういう言い方で良いのだろうか?)漫画・アニメ、SFなどが好きだと話しても見た目がオタっぽいとか言われた事はないのだが、周りの友人に引け目を感じるのがこの「垢抜けなさ」。エポレットのついてる服なんか着ると野暮ったくてしょうがない。(ひょひょろなのも問題なのだろうか)髪の色を明るくするとかそういうことでもないんですね。放っておいたらずっと家にいるタイプなので、友達や彼女と遊びに行ったり飲みに行ったりという「場」が絶対に少ないと思うのだが、外見は内面にも左右されると考えれば問題の核はここだろうと思う。
服装・ファッションがお互い気持ち良く過ごすための機能だとすれば、まさに「脱オタファッション」というのはコミュニケーションの問題でしょう。自分は2〜3人はの時は何ら問題ないが5人を越えるあたりから途端に喋れなくなるという厄介な病気(笑)を抱えていて、社交的というか周囲と調和できるオタクを目指すうえで最大の障壁はここなんだろうけど、これも服装の問題よりも「場数」の話だろうか。そういう意味では、「ライフスタイルの欠如」という問題と繋がるのかもしれない。

ちなみに、改めて思ったのだけれど音楽がオタクにとって苦手分野とされてるのはなぜなんだろうか。確かに、オタクの知人もゲーム関連以外はろくすっぽ聴いてないようだが音楽ほどオタクに相性の良い分野もない気がするけどなぁ・・。今気付いたけど、「エポレット」と「ろくすっぽ」は語感が似ている。続けて言いたい。

<ポストモダン>とは何だったのか − 坂本龍一への幻滅

 本上まもるという人の『<ポストモダン>とは何だったのか」とは何か』という本を読んだ。1983年を起点に構造主義やフランス現代思想が日本でどのように語られてきたかを浅田彰柄谷行人東浩紀福田和也らを中心に再検討した一冊。1983年といえばディズーランドの開園やファミコンの発売、YMOの散開などがあった年ですが『構造と力』がベストセラーとなった年でもあり日本におけるポストモダンニューアカの登場年と言えるのだそうです。ポストモダン思想・ニューアカは流行にもなったが80年代から90年代にかけて軽薄な時代の中で思想本来が持っていた「重いもの」が失われたのではないのか。その「重いもの」「本質的なもの」を探るというのが一応の主眼。
先に挙がった日本人は勿論、デリダドゥルーズガタリラカンなどに関しても概略というかコンパクトにまとめられていてそこそこ面白く読んだのだけれど、実は一番興味深かったのが著者がファンだったらしい坂本龍一に関するエピソード。

坂本龍一は私にとって文化的なヒーローだった。「シェルタリング・スカイのテーマ」は自分の葬儀でかけてもらいたいと思ってるくらいだ。〜中略〜 私と同世代の者たちにとって、若いころに坂本龍一の音楽があったことは得がたい僥倖に違いなかった。
〜中略〜
坂本の新しい曲を聴いても何も感じなくなってしまったのはいつのころからだろうか?いつも間にかご令嬢が坂本のプロヂュースでデビューし、ついには中沢新一と坂本が一緒に温泉に入るという悪夢のような光景がテレビ画面に映し出されるに至って、私の幻想の庭はただの廃墟と化してしまった。

中沢新一と坂本が一緒に温泉に入るという悪夢のような光景」を見た気持ちというのは、細木数子の番組で細木に激励される小室哲哉を見た僕の気持ちと近いのだろうか。違うか(笑)。著者は70年生まれだそうがその世代にとって坂本龍一がどういう存在だったのだろうかと考えた時に、音楽が好き・嫌いというの勿論あったろうが坂本を聴くということがちょっとスノッブというか良い気分にさせてくれる存在だったんだろうなと思った。今でもちょっとそういうのはあるかも知れませんが。今は誰なんだろう?コーネリアスとか?
実を言うと自分は坂本龍一の音楽は好きなんですが、坂本自身を好きとは言い切れない部分がある。本書で引用されている村上龍との対談での坂本の発言を孫引き。

怖いのは、そうやって量産される音楽を買う人間がいて、それは買う人間悪いんだけど、それでなにがいしかの快楽を得ているつもりになっているわけでしょ、実際にその子達にとっては快楽だったりするかもしれないということがさ。
〜中略〜
本当にいいものを、子供の時から超一流の絵を観、超一流の音楽を聴いてなきゃ、一流の音楽は作れるわけないんだよ。全然、そんないいものを観たり聴いたりしていない奴が作ったものを聴いてる無教養な者たちが一億人もいるわけだから、それは駄目に決まってるよね。   『村上龍対談集 存在の堪えがたきサルサ

こういう言い方がどうもなぁ・・。もちろん、枝葉に目をくれず高いレベルで表現していかなくてはいけない人達の苦労というかそういうのも理解は出来るんですけどね。中沢新一と温泉に入っている坂本に幻滅したらしい著者もこのコメントは肯定的に引用していて、80年代的な人達の共通の感覚なのかしらと思ったりした。

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

<ポストモダン>とは何だったのか − 坂本龍一への幻滅

 本上まもるという人の『<ポストモダン>とは何だったのか」とは何か』という本を読んだ。1983年を起点に構造主義やフランス現代思想が日本でどのように語られてきたかを浅田彰柄谷行人東浩紀福田和也らを中心に再検討した一冊。1983年といえばディズーランドの開園やファミコンの発売、YMOの散開などがあった年ですが『構造と力』がベストセラーとなった年でもあり日本におけるポストモダンニューアカの登場年と言えるのだそうです。ポストモダン思想・ニューアカは流行にもなったが80年代から90年代にかけて軽薄な時代の中で思想本来が持っていた「重いもの」が失われたのではないのか。その「重いもの」「本質的なもの」を探るというのが一応の主眼。
先に挙がった日本人は勿論、デリダドゥルーズガタリラカンなどに関しても概略というかコンパクトにまとめられていてそこそこ面白く読んだのだけれど、実は一番興味深かったのが著者がファンだったらしい坂本龍一に関するエピソード。

坂本龍一は私にとって文化的なヒーローだった。「シェルタリング・スカイのテーマ」は自分の葬儀でかけてもらいたいと思ってるくらいだ。〜中略〜 私と同世代の者たちにとって、若いころに坂本龍一の音楽があったことは得がたい僥倖に違いなかった。
〜中略〜
坂本の新しい曲を聴いても何も感じなくなってしまったのはいつのころからだろうか?いつも間にかご令嬢が坂本のプロヂュースでデビューし、ついには中沢新一と坂本が一緒に温泉に入るという悪夢のような光景がテレビ画面に映し出されるに至って、私の幻想の庭はただの廃墟と化してしまった。

中沢新一と坂本が一緒に温泉に入るという悪夢のような光景」を見た気持ちというのは、細木数子の番組で細木に激励される小室哲哉を見た僕の気持ちと近いのだろうか。違うか(笑)。著者は70年生まれだそうがその世代にとって坂本龍一がどういう存在だったのだろうかと考えた時に、音楽が好き・嫌いというの勿論あったろうが坂本を聴くということがちょっとスノッブというか良い気分にさせてくれる存在だったんだろうなと思った。今でもちょっとそういうのはあるかも知れませんが。今は誰なんだろう?コーネリアスとか?
実を言うと自分は坂本龍一の音楽は好きなんですが、坂本自身を好きとは言い切れない部分がある。本書で引用されている村上龍との対談での坂本の発言を孫引き。

怖いのは、そうやって量産される音楽を買う人間がいて、それは買う人間悪いんだけど、それでなにがいしかの快楽を得ているつもりになっているわけでしょ、実際にその子達にとっては快楽だったりするかもしれないということがさ。
〜中略〜
本当にいいものを、子供の時から超一流の絵を観、超一流の音楽を聴いてなきゃ、一流の音楽は作れるわけないんだよ。全然、そんないいものを観たり聴いたりしていない奴が作ったものを聴いてる無教養な者たちが一億人もいるわけだから、それは駄目に決まってるよね。   『村上龍対談集 存在の堪えがたきサルサ

こういう言い方がどうもなぁ・・。もちろん、枝葉に目をくれず高いレベルで表現していかなくてはいけない人達の苦労というかそういうのも理解は出来るんですけどね。中沢新一と温泉に入っている坂本に幻滅したらしい著者もこのコメントは肯定的に引用していて、80年代的な人達の共通の感覚なのかしらと思ったりした。

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

『王立宇宙軍』鑑賞メモ

The change from night to day is really only hours
It's just along the line can't you see the sign
When I looked around, Iwas heading down,
Won't somebody throw me down a line.
 (夜が朝になるのもただの時の変化
  人生の沿革なだけなのがわからないのかい
  気が付いたら僕は落ちかけている
  誰か僕にロープを投げ下ろしてくれ)       
                  TIGHTROPE/E.L.O
                  Written by Jeff Lynne(訳:Y.Higuchi?)※正確な記述なし

 アニメ夜話の後に(ってもう一月前だけど)もう一回あらためて観た。半年前くらいに初めて観たときは,打ち上げの前後以外は結構地味だなという印象で,これはやっぱりシロツグや仲間たちが持っている人生の諦念・諦観が背景にあるんだろうけど、何度か見てるとこの緩さが心地良くとまでは言わないが分かるような気になるのが不思議。伝説となっている打ち上げシーンですが、これはやはり凄い。技術的な事は分からないけど、感じる画とでも言おうか。押井守庵野秀明の「アニメファンはセル絵へのフェティッシュが云々」とか何とかという言葉に言及してるのを目にしたけど、確かにそういうのはあるかも知れない。作品のテーマは全てシロツグを追っかけていけばいいのだと思うけど、他の2つの要素が気になる。

  • a.リイクニ

 物語の起点は怠惰に過ごしていた男が女の言葉をきっかけに使命感に目覚めるというオタク作品にちょっとありきたりに過ぎるものなんだけど、『王立』はちょっと様子が違う。こういう構図を持つ作品では、その2人が「男女」として物語内に収まるのが普通であって、女は常に男を見守り励ます義務を負う。(『タッチ』でも『スラムダンク』でも)しかし、シロツグはともかくリイクニの方はシロツグを男として意識するという場面がほとんど無く、基本的には放ったらかし。母性のようなものは確かにあるが、それは熱心な宗教家という設定の故のような気もする。「宇宙に連れてって」とか気の利いたことが言えないんだろうか(笑)。
一方シロツグも本当に「本気」になったように見えるのも映画の終盤で、それまでは彼女の生活苦を知りながら何もしてやれない相変わらずな感じである。アニメ夜話の中で「シロツグとリイクニのすれ違いがリアル」という話があったけど、リイクニというヒロイン像とこの2人のすれ違いは、地球を眼下にしたシロツグが語る言葉を持たなかったことと並んで、『王立』の大きな裏テーマのひとつだ。
エヴァ18話『命の選択を』(脚本:樋口真嗣 庵野秀明)より

彼女、というのは遥か彼方の女と書く。女性は向こう岸の存在だよ、我々にとってはね。

  • b.歴史

 シロツグと教官の会話や、宇宙に上がったシロツグの眼前に広がる人類史を俯瞰するようなイメージなどからして、もう一つのテーマとして宇宙SFの決まりごとっぽいけどやはり「歴史」が浮かび上がってくる。個人の領域で言うと、大げさですが「歴史」の中に自分をどう位置付けるか、自分の中ではこれがこの映画の一応のメインテーマになっている。これは『王立』が公開されて約20年たった現在でも訴えるものがあるのではないか。歴史の中に〜などという事はただのロマンでしかないのだが、なかなか切実な思いのような気がしないでもない。

熱い血が流れてる ちょっと見じゃ わからないけど
人生はバランスで
何かを勝ち得て 何かを失ってく
それでも 未来を担うかけらでも
男としたら狙ってる

     FRIENDSHIP/H jungle with t
       WRITTEN BY TETSUYA KOMURO

もの凄い恥ずかしい話だけど、こういうのはちょっとだけ信じてる部分がある。それにしても懐かしい曲・・。

 無理やりまとめると、オタク(山賀博之は違うかもしれないけど)が自分たちの不毛さと戦うというか、そういう微妙な綱渡りを経て物語を語ることのできた奇跡みたいな作品ではないかと思う。もうちょっと年取ってから見たら、もっと沁みてくるような気がする(笑)。
DVD廉価版出ないかなぁ。

王立宇宙軍?オネアミスの翼? [DVD]

王立宇宙軍?オネアミスの翼? [DVD]