マジ世代とネタ世代

ロリコンファルさんより
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20051125#p1
音楽でも文芸でも漫画・アニメでも<マジ>クリエイターと<ネタ>クリエイターがいるというイメージは割と以前からあったけど、こうしてあらためて世代論からの分析を読んでみるとすごく面白い。

歴史を無自覚に反復させることは、永遠に同じ物事が繰り返されてしまうだけで、それは停滞する意識しか生まない、我々はいかにしてその反復を認識するかという歴史的問題意識を持ち続けることが大切なことなのではないか

という指摘は鋭いし全くその通りだと思う。

 自分の好きな作り手に関してこの点を考えてみると、結構思い当たる節があったり・・。例えば、出世作トップをねらえ!」で神がかり的なストーリーテイリングを見せた庵野秀明は自らの作劇において、パロディを積み重ねることでしか物語を作れない事を痛感していたはずで、だからこそ、「自分を書くことしか、オリジナルなんてない」という言葉は迫るものがあるしエヴァはあれだけ強い作品になったんだと思う。小室哲哉も基本的に<マジ>をやりつつも一歩引いて<ネタ>的に見る視線を無視する事が出来ないでいるように思える。キャリアや発言からも伺える部分はあるが、小室の作詞パターンで、主人公の想いをつらつらと歌った後、「たいした○○じゃない」(○○の中は『歴史』とか『現実』だったりする)と自嘲するような構成がよくあるけど、これもそういう部分を表す一つの例ではないか。
漫画では島本和彦なんかは<ネタ>をやりつつも最終的には<マジ>が出てしまう感じか。(「<ネタ>を経由して<マジ>」かも知れない)実は「絶望先生」を読んで久米田康治にもそんな所を少し感じてしまったが・・。
 この辺の線引きは自分でも結構あいまいだけど、いずれにしても彼らの作品が魅力的なのは異常なまでに強い自己言及によるところが大きいというのはあると思う。ストレスがかかってないクリエイターって何か魅力ないんだよなぁ。まあ、のびのびピアノやシンセを弾いてる小室先生も好きは好きなんだけど(笑)。
 話がずれそうなので世代論に戻すと、<マジ>世代の人間でありながら<ネタ>的な要素を拒む事が出来ない、もしくは<ネタ>世代でありがら<マジ>に引き寄せられてしまうクリエイター達の揺れが面白い作品を作るという事か。
 この辺のテーマは掘り下げてみると結構興味深いかも。