斎藤環+酒井順子 「性愛」格差論(中公新書ラクレ)

 おたく,ヤンキー,腐女子のそれぞれの性愛のあり方についての気鋭の両氏による対論。それぞれの文化領域・トライブにおける性愛事情の概要をなんとなく掴むにはいいかもしれない一冊。ただあくまで現状の確認が主なので何か新しい視点・主張を期待するとちょっと物足りないかと。この分け方自体も議論のあるところだろうとは思う。ちなみに、ヤンキーというのはかなり大枠で言っていて、不躾な言い方をすると広義のDQNというか、まあそういうイメージ(笑)。(本文中でも正確な定義はしていない)

 我々にとって大事なのはもちろん第2章『「おたく」−萌える男たちの心理とは?』なわけですが,ここでは「おたく」と「負け犬」「電車男」などのトピックについて話が進む。負け犬はオタクをどう見ているか,「電車男」という物語をどう捉えるかという事ですがここでまあ当然というか本田透の名前が出てくる。


斎藤:本田さんには「ヘテロ」(異性愛)な関係と,おたく趣味は両立しないという非常に強固な確信があって,ヘテロにいくということは,要するにアニメを捨て,ゲームを捨て,フィギュアを捨てるという生活をすることに他ならないと思いこんでいるところがある。

これに関して、そんなに頑固にならなくてもいいんじゃないかと斎藤環は言うわけですが、これをどうクリアするのかというのは永遠の課題なんじゃないかと思っちゃたりもする(笑)。世間に向かって萌えの根拠付け,正当化をするというのは何とも骨の折れる作業なわけで,個人的にはそれをやろうとした本田透に対しては最大限の賛嘆を送りたいとは思ってますけどね。
 あとちょっと面白かったのが、40代以下の言論人がバブル期にオタク的ルサンチマンを抱えていると言う話。何人かの名前を上げたあと自分の筑波大学時代についても

若い男女が地理的にか隔離された結果、極端に流動性が高い場所ができてしまったんですね。結果として男女関係については、それこそ勝ち組、負け組み的な格差が広がりやすくなり、私のような負け組みはルサンチマンをため込みつつ必然的におたく化していくことになる。

と語っているがこれは筑波に限った話しじゃなくて大学全てに言えることですよね。大学という場所は男女関係も含めて全ての人間関係の流動性が高いわけで必然的にそこには格差のようなもの(主に、量的な)が生じるのだと思う。自分の中に「非モテ」・「非コミュ」的なものを感じる人は大学で目覚める人が多いんじゃないか。
たぶんどこの学校にもあるんだと思うけどなんて言うのかな、あのオープンカフェみたいなスペース。キャンパス内を移動するのに構造上そこは通らざるを得ないんだけど、通るたびに5,6人で談笑する男女のグループとかが見えるのでまあ何ともイラッとする。(何だこの恥ずかしいセンテンス・・・orz)ああいう場所を気兼ねなく使える人達とそうでない人達の差というのは間違いなくある。学内報に載ってる楽しそうに写ってる連中の写真とか見てもいろいろ思うところはあるな(笑)。

 さまざまな文化領域のさらなる細分化・島宇宙化が指摘される中で絶望や諦念といった根底における共通性,「格差」を超えるための希望としての「性愛」という方向へ対談後半は落ち着いていくんですが,正直あまりしっくりこなかった。 「観察の人は関係の人になれない」というのはちょっとハッとさせられたけども、近視眼的に「バカ」になれという結びはどうなのか。まあまともに受け取るのもアレなんだろうけど。

 余談だけど『戦闘美少女の精神分析』がちくま学芸文庫から再刊されてます。